行動の主語は誰だ~OVERTHESUN#82から考える~

心理学雑記
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春だなぁなどと思っていたら

温度が急激に上がってきました。

日差しがあると、暑いのなんのって…。

その癖、朝晩は割と冷える。

中年泣かせの温度差。

いまだに、カイロは持ち歩くようにしている、

こーでです。

星と料理と心理学。

中年に冷えは厳禁。あっためていこう。

OVERTHESUN#82から考えた

以前にも書いたけれど、

家事をする際には大体、何か音声を聞いている。

無線イヤフォンをして、

音声コンテンツを聞きながら

作業すれば、面倒な家事も結構楽しくできる。

声がないと家事ができない~お勧めのPodcastとYouTube~ | Office Arde Code 日記

特にジェーン・スーさんと堀井美香さんのPodcast、

毎週金曜日17時に更新されるOVERTHESUNは、

週末の家事作業のお供。

OVERTHESUN#82が結構、考えさせられた。

詳細は、聞いてもらった方が良いので書かない。

というか、ぜひ聞いてほしい。

最近なんだかうまくいかないひと、色々ありすぎるひとは特に。

聴いてもらって何かが解決するわけではないけど

自分の現状をこれまでと違う視点で考えるヒントになると思う。

私がPodcastを聞いて考えたことはこうだ。

私は勘が良くて、色々なことに敏感だ。

そして、日本女性あるあるだと思うのだけれど、

母から「もっと気を遣える人になりなさい。女の子なんだから」と

言われて育った世代だ。

(それがよいわけではなく、そういう価値観で育ったという事実)

真面目に仕事をするようにという価値観が強い世代でもある。

なので、仕事で手を抜くなんてもってのほかだし、

相手が要求する前に、「これをやっておいた方が良いのでは」と

考え、行動する癖がついている。

これは、

自慢でもなんでもなく、

時代と性別に要請された出来上がった外面、ある種のふるまいがあるということ。

本当の私はそんなタイプではない、のだと思う。

本来の私は、マイペースで、適当。

関西弁でいうところの、ええかげん。

もしくはおおざっぱ。

先日、

「時期が来たらこちらから連絡しますね」という仕事先の人からの連絡が

待てど暮らせどないので

こちらから連絡したことがあった。

連絡はすぐ返ってきたけれど、どこかあっさりしたもので

私にはもやもやがのこった。

「いってたことをやらないのかよ」という思い、

「仕事が適当な人は連絡も適当だな」という考えとともに

怒りが体中を駆け巡ったのだ。

この怒りは何だろう…、

このやりきれなさは、もやもやは何なのだろうと

考えていくと

「自分はやりたくもない気を遣っているのに

貴様は、大して気を遣わないんだな」

ということなのだ。

私は、本当はそんな連絡をしたくはなかったという

真実、大前提がある。

「体裁上、必要と思われたから、連絡した」けれど

それは本当は苦痛で

私は苦痛をおして連絡したのに

相手の反応はあっさり、

私が想像していたものとは違ったので

怒っていたわけだ。

この連絡は私にとっては絶対に必要なものではなかった。

必要なのは相手方。

私が「する」、

嫌な言い方をすれば、「してあげる」必要など

なかった、連絡。

だけれど、連絡がないことで、何となく不安になって、連絡してしまった。

不安に耐えられなかった。

私は不安なのに、相手が飄々としているので腹が立った。

つまり、

OVERTHESUN#82では

「(テーブルから)コップが落ちるさまに耐える」と表現されていたやつが

できなかった、ということ。

よくよく考えたら、

連絡してなんて、相手に頼まれていない。

つまり、

「してあげた」のではなく

私が勝手に「した」のです。

なのに、相手の反応が、自分が考えていたものと

違うので、怒っている。

これは、

ジェーン・スーさんがTwitterで書かれていたように、

「自他の境界線」の話だ。

自分と他人を分けられていないということ。

相手からすると、連絡なんて欲しくなかったかもしれないし

今タイミングじゃないと感じたかもしれない。

ありがたいというより、面倒くさいメールだったのかもしれない。

そう考えると、

相手の気持ちが私が考えていたものより

あっさりしているのも

怒るようなことではない。

その時、その人がどう感じたのかはわからない、

ただ、私が望んだような反応をするのは仕方ない。

私とは違う人間なのだから。

相手が連絡を忘れて、失敗するとしても

それは私の問題ではなく、相手の問題だ。

トラブルが起きてから、それを指摘してもよかっただろう。

もしくは、「自分が不安だから連絡する」と自覚できたうえで

連絡するというなら、

ここまで腹も立たなかったかもしれない。

他人が自分と同じように感じること、

他人が自分と同じようにふるまうこと

反応を返してくれることを

勝手に期待して、

勝手にがっかりするのは

傲慢で、幼い、ともいえる。

幼児が、友達に良かれと思って虫を見せて

拒否されて

ショックをうけるのと、構造は同じだ。

自分と他人を分けられていないと

無意識に、自分の考えや言動を相手に要求してしまう。

行動の主語は誰だ

こうして家事をしながら

つらつら考えて

ずいぶん、頭がすっきりした。

自分と他人をごちゃごちゃにしていたから

感情もごちゃごちゃしていたのだ。

他人の仕事、ましたや他人の人生を

私が引き受けてはいけない。

私がするべきことは、私の仕事、

というより、私の人生なのだから。

去年、仕事を減らして思ったのだけれど

替えがない仕事なんてない。

やめてしまっても、案外ちゃんと回っている。

自分の気持ちの問題だけであって、いなければいないで

どうにかなるものなのだ。

一等、優先すべきは、私の人生であって、それ以外ではない。

だからこそ、

「自分と他人を分ける」必要があるのだ。

ただ

「自分と他人を分ける」というと

なんだか冷たく感じるときがある。

私が、

そういう教育や文化を受けてきた世代だからなのかもしれない。

何となく「分ける」という言葉の質感に

バターナイフみたいな、

金属のような質感、

冷たさを受けてしまう。

これって、昭和情緒なのだろうなぁ。

分けるに冷たいも、熱いもないのだろうに。

本来的に向いていなくても、

そういう教育や文化を受け続けていると

そういう思考になっていくのかもしれない。おそろしや。

もう少し、自分にしっくりくる言い方、考え方はないだろうか。

そこで考え出したのが、

「行動の主語は誰だ」というもの。

「世の中はこれを望んでいるから、こうする」というのは

行動の主語が

「世の中」になっている。

「相手がこう望んでいるだろうから、こうする」というのは

行動の主語が

「相手」になっている。

「~のために」とか「~に言われたから」も要注意。

一方、

「私がしたいから、こうする」というのは

行動の主語が

「私」になっている。

他人を巻き込んでいない。

行動の主語をできるだけ、

「私」になるようにすると

「自分と他人を分ける」ことも

出来るようになるのではないか。

それでももし自分以外の誰かに何かしたいなら

そして、もし、

それでも自分以外の誰かに何かをしたいと

「私」として思うなら、

きちんと言葉にして相手に了解を取る必要がある。

勝手にやってしまわない。

相手の意向を確認する。

「私が気になるので、〇〇をしてもいいでしょうか」と尋ねる。

それって結構面倒くさいし、やや泥臭いから

やらないことが多いのだけれど

やはり、「私とあなたは違う人間」ということを

真に認める意味では、必要なのだと思う。

以前、駅でカバンの持ち手がねじれたまま、

肩にかけていたら

「気になるから」といって、見知らぬ人に直されたことがあって

とても不快だった。

「気になる」のはその人であって、私ではなかった。

「やめてください、不快です」と伝えてもやめてくれなかった。

自分が気になったうえでの行動でも、

相手が「気にならない」というなら

そこで引き下がることも必要だ。

かの有名な、ごんぎつねも、

一方的に、贈り物をするごんは、最後に撃たれてしまう。

結局、相手の意向を確認しない、親切は

トラブルのもとなのだ。

・・・・というか、

ごんぎつねをほぼ全国民が履修しているのに

こうなのは、

学校での読み取りが間違っているのでは??と思ってしまうな。

ごん、キツネとして楽しくいきてよかったんだよ。

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ジェーン・スーさんの著作の中で

私は、お父さんのことを書いたこれが一番好きです。↓

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